我が子の死

デッドマン・ウォーキングを桂先生と一緒に見て、見終わった。

先生の第一声は、
「渾身(こんしん)の(=妥協のない)映画ですね」
大満足であった。
全く、「死刑」という重い究極のテーマを扱いながら、グイグイ引き込む。
「死刑」について、
「日本映画だと冤罪とかにしちゃうんだけど」
と先生。
そうそう。
「逃げ道」作っちゃうんだよね。
この映画、被害者は十代のアベック、死刑囚が「極悪非道・畜生以下」で、
救済のしようないやろ。
そんな、どうしようもない「人間のクズ」みたいな奴を、神の僕(しもべ)であるシスターが、
どうやって救うねん。
なのである。
サスペンスである。
これは実際にあった、死刑廃止論者の修道女が書いたノンフィクション「デッドマン・ウォ−キング」で、それを読んだスーザン・サランドンが映画化を熱望し、(入籍はしていないが、子どももある)パートナーのティム・ロビンス脚本・監督で映画となった。
スーザン・サランドン、また、死刑囚、マシューを演じたショーン・ペンに信仰があるのかないのかは知らないが、どちらも「神が降りた」としか思えない演技。
ドキュメタリ−を見ているような緻密さと迫力、リアル感に圧倒されるばかりである。
「あなたは死刑反対ですか?」
と先生に問われ、
「人間が人間を裁いて殺すことには疑問を感じますが、抑止力として必要だとは思います」
「そうですね」
しかしこれは、直接関係のない第三者としての意見である。
仮に、自分の子どもが殺されたりしたら、「倍返しや!」になりかねない。
それどころか、キリスト者になったので、神を逆恨みしそうである。
映画中で被害者少年の父親はカソリック信者だという。おそらく実際もそうだろう。果たして、神を信じる者が、一人息子を残忍極まりないかたちで殺されて、それでも、
神を信じ続けることができるのか?
この父親は信仰を捨てなかったのか…?と、関係ないところで考え込んだ。
我が子の死は、自分の死よりつらいかもしれない。その上、
病や事故(なら、まだあきらめもつく)…ではない。
「(犯人に)魔が差した」…というような情状酌量の余地もない。
殺したのは、生きてても害悪しか撒き散らさないような言わば「人間のクズ」
反省もない。
なんで、よりによって、我が子がこんな奴に、あんな殺され方されんねん!!!
この落とし前、どうつけてくれんねん。
と、犯人より神様に中指突き立てるかもしれない。
思い出したのが、1999年に起きた光市母子殺人事件

18歳少年が強姦目的で社宅に押し入り、23歳主婦を(抵抗激しく)殺害後に屍姦。泣き叫ぶ11カ月の女児を殺害。財布を盗み逃走。ゲームセンターで遊んだとか。

被害者の夫、本村洋さんが「犯罪被害者の権利確立」を訴え、マスコミでも大きく取り上げられた。
犯人は2012年に死刑が確定され、これについて本村さんは、
「社会正義示された」=死刑考え、悩んだ13年間―「喜びなく、厳粛」
と語っている。
(ちなみに本村さんは2009年に再婚し、二児の父となっている)
「二羽の雀が一アサリオンで売られているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから、恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」
(マタイによる福音書10章29-31節 )
そんな神が、どうして、このような現実を許されるのか?
わからない。
神の意志など人間にわからないのが当然で、わかろうとも思わなくなったが。
私の周囲の信者にも、さすがに「惨殺された」というのはないが、我が子を、病気や事故、自死…で喪った人は少なからずいる。
私の集う集会のドイツ人宣教師など6人娘のうち3人を喪っている。
それでも、それぞれが、我が子の死を主から受け取り、信仰から離れることはない。
我が子の死を通して、考え及ばない恵みを与えられているようである。
例えば、
娘を喪ったことで、音信普通だった息子が帰って来た。
(死を覚悟した娘と)天国での再会を約束できた。
息子はもう、この世の苦しみから解放され、天国で喜んでいると確信できる。
など…
そんな恵み…
少なくとも私は、与えられたくない。
と思うのは、不信仰だろうか?