「サイモン・バーチ」(3)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」
エレミヤ書29章11節)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを益としてくださることを、私たちは知っています」
(ローマ人への手紙8章28節)
「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけがなる」
箴言19章21節)
私達、よく計画を立てます。今年の抱負とか人生の目標とか…。
でも、そんなこととは無関係に、神様にはその人のために立てられた「計画」がある、というのですね。

その計画は、例え辛く、受け入れ難いものであっても、後になれば平安や希望を与えるものであると語っています。
思えば、自分がいつ、どこに、どんな両親から生まれてきたか?
男か女か、性質や能力、顔形…。
それらは自分ではどうしようもないもので、受け入れるしかない。
でもそれが、「神のご計画」と思えば、少し違って来るのではないでしょうか?
そして、この映画の主人公、サイモン少年は、
両親が絶望するほど、人(正常)とは違って生まれてきた。
両親から愛されないまま、正常とは違うかたちで成長した少年。
それが、
屈折もせず、伸び伸びと、元気で明るい少年に育っている。
ありえない。
と思うんですけど、そこには、
自分がこんなふうに生まれてきたのは、「神のご計画」であり、自分は神の使命を全うする道具。
という信念があるからなのですね。
一体、どのようにして、この信念が植え付けられたのかは、一切描かれていません。
そして、

神のご計画に従って生きてきたサイモン少年が、
親友ジョーの母、レベッカを死なせてしまう。
これ…一体なんですか?これも、ご計画ですか?
と突っ込みたくなります。
サイモンはジョーに、宝物にしていた「野球カード」を送ります。
受け取ったジョー、戸惑います。
どうすればいいか悩むジョーに、レベッカの恋人だったベンが
「君も何かあげろよ。返して欲しいと思うものを」
そしてジョーはサイモンの家に、ベンの土産で、サイモンと開いて絶叫した、
○○○○○
を届けます。
包みを開いたサイモンの母…失神したようです。
そうして、レベッカの死後、再会するサイモンとジョー。
親友の母を死なせたサイモン。
親友に母を殺されたジョー。
これ以上の悲劇があるでしょうか?
神を呪っても仕方ないでしょう。
でも、サイモンはジョーに言います。
「つらいけど、神様は僕を選んだんだ」「事故じゃない。神様の計画だ」

ジョーは、
計画なんかない。神様はいない。ママの死はボールのせい。サイモンの体は病気のせい。
「神様の計画なんかじゃない」
それは、サイモンが、サイモンとして生まれて来た意味を否定する言葉でもあります。
レベッカの墓碑に祈りを捧げるサイモン。
「天国の高みで、天使達の導きを…」
あんなにもサイモンを大切に、愛してくれたレベッカ
彼女を喪ったばかりか、その原因が自分にあるとは…。
どれほど苦しいことでしょう。
そこに現れるジョー。
「ごめんなさい」
謝るサイモンに、
「わかってる」
それで、すべてのわだかまりが溶けてしまいます。
2人で冷たい川に入り、
「タマがプルーン」

とジョーが言えば、サイモンは、
「僕はレーズン」
つらすぎる現実を2人は颯爽と乗り越えました。
そうして、
「僕の父親探しが、もしかして君の使命だよ」
などとジョーが言い、2人でジョーの父親探しを始めます。
「神様は計画があって、君を小さくしたんだろ」
とサイモンを便利使いします。
やがて、思いがけない人物が、ジョーの父親とわかるのですが…。
「僕は英雄になる」
ジョーとベンの前でサイモンは言います。
「どうやってなるの?」

とベン。
「わからない。神様が合図をくださるはずだ」
「辛抱強く待たないとな」
「ずっと待ってるけど、もう時間がない」
「サイモン、君はまだ12歳だ。先は長いよ」
「そうは思えない」
この映画の中で、サイモンの病については何も語られません。でも、
同じ12歳のジョーの腰の辺りの身長しかないサイモンが、医療の必要なしに生きていけるとは、考えられません。
サイモン自身が、「後、どれくらい生きられるのか」――常に向き合っていたことでしょう。
そうして、神は、サイモンに「英雄」のステージを用意してくださっていました。
「僕が生まれたのには理由があるはず」
そんなサイモンの祈りに、神は見事に答えてくださいました。