三国連太郎(1)

更新遅れて、申し訳ございません。
締切にあえいでおりました。
さて…。
何をネタにしようか…思いあぐね、そして、
仕事のネタ=ブログネタ
にしたら、
一石二鳥やんけ。
ということに気づき、
今回は仕事で調べていた、俳優三国連太郎をネタにします。
はい、この4月90歳で亡くなった日本を代表する名優です。
名優にありがちなんですけど…。この三国連太郎俳優になろうなんて夢にも思っていなかったようなんですね。
元々三国は、母が16歳で女中奉公に出された海軍軍人の家で身ごもった、私生児なんですね。
出生は群馬県太田市。旧制中学を2年で中退し、各地を転々とします。なにせ90年前、昭和ならぬ大正ですから時代が違います。赤紙が来ても「戦争に行きたくない」「死にたくない」と逃亡をはかったものの、
「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」
という母の言葉に、覚悟を決めたようです。中国大陸の前線へ送られた三国の部隊は総勢千数百人だったのが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎず。戦地へ向かう途中、三国は身体を壊し、熱病にかかる。十日間意識不明になり、死んだものだと思われて、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたのが、焼き場に運ばれいざ焼く番になってむしろを剥がしたら目を覚ましたとか…。
もう、想像を絶します。
俳優へのきっかけは、東銀座を歩いていたところを松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされたとか。「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと。当時27歳。182センチの長身に日本人離れした彫の深い顔立ち。大変なオーラが漂っていたのでしょう。
1951年、木下恵介監督「善魔」に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役としてデビュー。役名の「三国連太郎」を芸名にします。この演技により第2回ブルーリボン新人賞を受賞。この時、既に三国は二度目の結婚をしています。
先に、「俳優になろうなんて夢にも思わなかった」のは「名優にありがち」と書きました。例えば、小津作品に欠かせない、笠智衆。この人、熊本の浄土真宗の寺の住職の息子さんなんですね。笠智衆」は本名で、お寺に生まれたから、こんな名前なんだと合点がいきました。親には寺を継ぐためと上京して大学に入りますが、中退。松竹キネマ蒲田撮影所の第一期研究生として入所しますが、俳優になりたかったわけではなくて、住職になる以外なら何でもよかったそうです。小津安二郎監督に見出されるまで、長い大部屋時代が続きました。
また、黒澤映画に欠かせない三船敏郎あの、世界の三船は、元々、東宝の撮影部に入り、撮影助手志望だったのが、何かの手違いで俳優部に書類が交じり、不本意ながら面接を受けることになったようです。
三船敏郎が撮影助手やってたとしたら…。
どうなってたんでしょうね。
あんな撮影助手いたら、怖いですね。(二枚目スターより男前)
笠智衆にしても、三船にしても、三国にしても…。
本人の意思とは関係ない、運命としか呼べないものを感じます。
あれ…本筋からちょっとそれたところで時間が来てしまいました。
続きは近々…。