三本もある。(3)

私は祈りました。渾身の力をふりしぼるように、叫んでいたんです。
「神さま、助けてください」
はい、私も毎日のように、「神さま、助けてください」と祈ります。自分ではもう、どうしようもないことばかりで。そして…。
胸の中に熱いものがいっぱいになり、そして、体中の緊張――つっぱっていた意地のようなもの、が、ゆるやかにほぐれていくのがわかりました。涙があふれました。そして、その晩、私は、事故以来はじめて、ぐっすりと、本当に眠ることが出来ました。
翌朝。あんなにさわやかな満ち足りた目覚めは後にも先にもないくらい。六時頃だったと思います。
「うれしい朝だわ」
こんなふうに、朝がきてうれしい、なんて思ったのも、もう何年かぶりでした。
(略)
「ねえ、包帯、取って。私、見てみたいの」
看護婦さんはいつもと全然違う私のようすに、何かを感じたんでしょう。だまって、包帯を解いてくれました。
「ああっ、三本もあるじゃない」
私、声をあげてそう言ってました。
「私の指、見て見て!三本もあるんだわ」
「三本もあるのよ!
私は繰り返し繰り返しそう叫んでいました。我知らず涙があふれ出て、顔も首すじもぐしゃぐしゃでした。今まで、「三本しかない」と思っていた同じ三本の指が、突然、「三本もある」になったのです。
それから米子は「三本もある」指で、鉛筆をもったりお箸でごはんを食べます。文脈からも感じられると思いますが、
自分自身を眺めている。
んですね。
昨日までの自分が、新しい自分を感動的に眺めている。
おかゆをこんなにおいしいと思いながら食べたことのない米子は、お膳が片づけられ、枕元にあった本に手が伸びます。
一度だけ、賭けてみよう。あの人たちの神に。祈ってみよう、あの人たちのキリストに。ほんとうに生きる気力が出てくるのかどうか、だめで、もともとなんだから。
米子にそう思わせた牧師と青年が置いていった本、聖書です。ページをめくり、次の一節が米子の目を射抜きます。
誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二 5章17節)
よく耳にします。みことばを求めて聖書を開くと、その時、主はぴったりのみことばで答えてくださる。みことばを通して、語ってくださる。
米子はこの時、感じます。
そうだ。私は生かされているんだ。誰かの大きな、目に見えない力で。
エスさまと出会ったのでしょう。
自殺未遂で「死ぬよりひどい」目にあい、「死に直す」覚悟をしていた17歳の少女が、こんなふうに変わる。まさに、
古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなったのです。
一夜にして生まれ変わったと言えるでしょう。
私、ページがめくれるじゃない、本が読めるじゃない、さっきは、鉛筆ももてた。ごはんも食べた。何でもできるじゃない、私。
足がない、手がない、条件は同じなのに、心の持ち方ひとつで米子は別人のようになります。
そして、米子は神学校の生徒であった田原青年と大恋愛の末、結婚します。
「あの人がおまえに一生懸命なのは、おまえに対する同情と、一種の正義感からなんだ。キリスト教の宣伝のためにも、お前のような障害者は効果的だしね」
心から米子を心配する身内は反対します。それを振り切り、米子は勘当も覚悟します。
彼は毎晩、祈りという神との対話の中で、自分の人生を考え、私を伴侶にすることに対する神の意志を問うていたのですって。私を助けてくれるためではなく、私に助けてほしいから一緒になりたいのだ、と彼はゆっくり、はっきりと言いました。
田原青年22歳。これ以上ないような純愛ではないでしょうか。米子がこの気持ちを受け入れないはずがありません。婚約して、米子が義足を作りに渡米。そこで妊娠がわかります。両足と左腕、右手の三本指が残った米子に子どもが育てられるのか…?
この本を通して強く感じたことは、米子が田原青年と出会い、結婚して家庭を築き…。女性としての幸せを存分に経験しているということ、羨ましくなりました。米子は二女の母となりますが、自然体そのもの。
「ねえ、あなたのお母さんって、片手がないんだって?」
とクラスの友達に聞かれた次女、ルツ。
「そうだよ。足だって、二本ともないんだよ」
米子にも娘達にも、コンプレックスなどないのですね。
親、家庭、人生などの本質、本当に大切な実質は何かということを無意識に理解していたみたい、だと米子は語ります。
「ねえ、お母さんに、ちゃんと両手、両足があったらいいのにな、って思う?」
米子の問いに、
「ええーっ。そんなの、気持ち悪いよ」
と娘達は答えたそうです。
米子は夫の母、義母とも13年間暮らします。一人でエプロンをかけ、裁縫も掃除も料理、アップルパイも焼きます。輝く笑顔で主婦として、女性として…生きている姿に励まされました。主婦業、母親業の傍ら、時間の許す限り全国各地で講演を行われました。2005年、67歳で自宅で急逝。密度の濃い人生に乾杯…。