50人の食事

はい、クリスチャンの(お酒抜き)宴会のような家庭集会。賛美歌歌い、メッセージを聞き…後は皆でご馳走をいただくのですが…。
いつも、不思議に思います。ご馳走は、主催者が用意したものと、後は信者の持ち寄り…。料理の内容は特に決まってはいないのですが、出るわ出るわ…あるわあるわ…ホテルのビュッフェ並みにデザートまで何種も出るわけです。それが、
余ることはあっても足りないことはない。
一体、どこから出てくるねん。
だって…。
色々な所で不定期に行われる家庭集会。
予約どころか出欠も取らない。
つまり、
何人来るのかわからない。
ということなんです。私も何度か出てますが、行く行かないはその日の気分だったり、誰も強制はしないし、気楽なもの。天気が悪くて、集まり悪いんじゃないかと心配して行ってみると、
玄関先は履物でいっぱい。
今まで、集まり悪くて寒々としてた、なんてことはありませんでした。かと言って、
集まりすぎて家に入り切らない。
ということもない。
会費は取らない。何人来るのかわからない客に、どうやって食事をふるまうのか。
見当もつきません。
そして、何より不思議なのが、
今まで、「足りない」ということがなかった。
余るのはさておき、「足りない」ってことがないんです。コンビニまでひとっ走り…なんて、見たことがない。
この日の横須賀家庭集会は50人くらいだったでしょうか。仮に50人として、
50人の食事って見当つきますか???
それも、大食いもいれば小食もいる。50人が、「あ〜食った…」みたいな。
イベントの売店なんかでも「SOLD OUT」はよくあるのに…。
どうしても不可解で聞いてみました。答えはいつも、
「イエス様が整えてくださる」
でした。
例えば、去年のクリスマス、姉妹方の手作りクッキーを子供たちのお土産として袋づめしたのですが、子供たちが何人集まるのかわからない。(友達大歓迎なので)例え一人でも、「ない」子がいると大変…。袋づめしながら、聞かずにはいられませんでした。そしたらやはり、「イエス様」…。今まで、当初から足りなかったことはなかったそうです。ちなみに、この手作りクッキー。みんなすごく手が込んでいて、感動物でした。
マタイの福音書にあります。
エスの奇跡にあやかろうと、大勢の群集がイエスに付き従っていました。ある時、イエスが弟子達に群集の食べ物の心配をします。群衆は3日間もイエスと一緒にいて、食べ物をもっていない、と。弟子達は答えます。こんな辺鄙なところで、こんなに大勢に食べさせるパンが、どこから手に入りますか?今、あるのは七つのパンと魚が少し。
「すると、イエスは群集に、地面に座るように命じられた。それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子達に与えられた。そして、弟子達は群集に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった」
(マタイの福音書15章 35〜38節)
「四千人の給食」などと言われるところですが、これを思い出すようになりました。
そう言えば去年のクリスマス、場所がなくて私の仕事場で「祈り会」をやることになりました。何人集まるのか、ことによっては、
私はリビングの床に座ることになるのか…?
でも、どこかで(イエス様がちゃんとしてくださる)と思い…。
この人数も不定期で、ダイニングテーブルの定員は5名。
当初、5名の申告があり、私を入れて6名。ま、つめれば大丈夫か…。と思っていたら、
当日、1名のキャンセルがありました。
キタ Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!!
この日は娘達の終了式。祈りの邪魔にならないように帰宅するかな?…と、これも主にお任せしたら、
祈りが終わり、まるで、クリスマスのご馳走の匂いを嗅ぎつけたように娘達が帰宅。
持ち寄りの料理とデザートで、おごそかなクリスマスランチとなりました。
ヤァ \(⌒∇⌒(⌒∇⌒(⌒∇⌒)⌒∇⌒)⌒∇⌒)/ ヤァ