「ジュノー」

はい、そんなわけで(前回ブログ参照)
今回の映画は、
文部科学省選定
日本赤十字社推薦
ついでに、
横浜市教育委員会も後援してる映画。
「ジュノー」です。
学校から案内のあった無料鑑賞会、娘達連れて行きました。

国を越え、人種を超えて、無償の愛に生きたスイス人医師「マルセル・ジュノー博士」の生涯がアニメーションに!!

「広島の恩人」と呼ばれるジュノー博士ですが、国内はおろか、広島でさえあまり知られていないようです。アニメ・ジュノー制作委員会代表、津谷静子さんの言葉によると「博士は困難にぶつかるたびに『赤十字には条文がある。しかし乗り越えてゆくために必要なのは、条文の奥底にある愛です。』と一貫して示されています」それが赤十字の精神で『無償の愛』であり、絶望の時にも希望を持ち続けた博士の生き方は、人生の大きな手本になると深く感じ入った、とあります。
「(略)『世のあり方』を説くのではなく『人のあり方』に触れるこの映画を通して、届けていただいた「愛のジュノー便」を送り出してゆきたいと思っています」
1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力でマルセル・ジュノー博士記念碑を建立しています。http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/ireihi/tour_29.html
映画は、修学旅行で広島平和記念公園に来た中学生の美依と優子が主人公。2人はマルセル・ジュノー博士の記念碑の前で不思議な光に包まれ、時空を超えてジュノー博士の生涯を追体験します。
1935年、ジュノー博士はジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になり、赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任します。この頃、イタリア軍エチオピアに侵攻、第二次エチオピア戦争の火の手は拡大の一途にあり、近代兵器を装備したイタリア軍の前にエチオピア軍はなす術もなし。負傷者は増え続け、イタリア軍ジュネーブ条約を無視、非戦闘員ばかりか赤十字さえも攻撃目標に…。
人を人とも思わぬ残虐な行為。消耗品のように消えていく生命。博士は人間の心の奥底に巣喰う悪魔を目の当たりにします。それでも、無力感と絶望の中で人間が本来持っている愛を信じ、博士は懸命に困難に立ち向かっていきます。自らの命を危険に晒すことも顧みず、博士はエチオピアの南部戦線と北部戦線を何度も行き来し、負傷者の救援、医療物資の供給に当たたります。「憎むべきは戦争で、人間ではない」。
この、「正義」を越えた人道主義、無償の愛…は、博士の人生を通してとどまることを知らず、
どうしてここまで。
と思わずにはいられません。
その博士の精神を支えたと思われるエピソードが挿入されています。
博士の父親は牧師、熱心なクリスチャンで、家族(子供7人、博士は5番目)が食うや食わずなのに、貧しい人に食物を与えてしまう。それをジュノー少年は不満に思います。すると、食事時、近所の奥さんが「多めに作ったから」と、たっぷりのご馳走を届けてくれ、少年は神の存在を感じます。
":*・゚☆.。.:*・゚£。・""・)o[†...Thanks...†]o(・""・。)β。.:*・゚☆.。.:*"
博士は15歳の時、尊敬していた父を喪います。キリスト者として愛と慈しみに溢れた父の生き方が少年に影響しないわけがありません。博士の「無償の愛」は深い信仰に裏打ちされたものだったのでしょう。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中でした。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、1万人以上の命を救います。自らも広島に入り、原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼びました。
1961年、心臓発作で没。57歳。
 「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」
息子、ブノワ・ジュノー氏の言葉です。
64分の間、娘達は退屈することもなく、私は涙することも。舞台のくせか、映画終わって拍手のないのが寂しくて拍手したら、拍手が波のように広がっていきました。
YAH♪☆0(^^0)*^^*(0^^)0☆♪YAH