地獄について考える。

人は、どうして生まれるのか?
人は、何のために生きるのか?
人は、どうして死ぬのか?

ずっと、わからないまま、生きていました。
多分、多くの人が、
気がついた時には生まれていて、
死なない限りは生きていなくてはならなくて、
死にたくないのに死ななければならない。

この矛盾にぶつかるのは自然なことだし、人生の中で向き合うべき壁のようなものだと思います。
…で、なかなか答は出ない。一生かかっても出せないかもしれない。
人は、どうして生まれるのか?
人は、何のために生きるのか?
人は、どうして死ぬのか?
わからないまま生きるって、目隠ししたままマラソンさせられてるような…不安でつらいものです。
私がキリスト教に興味をもち、毎週、礼拝に通いバイブルスタディに励むようになったのは、この長きにわたる疑問に光が見えてきたからです。
ダンテの「神曲」で、ウィリギリウスがダンテに訴えます。(6.14 永井豪による「ダンテ神曲」(3)参照)

「人はおろかで人生は厳しい。人は常に罪を犯しかねない環境にあるといえる。ゆえに生きるとは人生とは…神が人に与えた試練なのだ!!」

宗教をもたず、神の存在を観念的にしか感じられない人間には、心に染み込まないかもしれません。ウィリギリウスは続けます。

「人は死後の世界があることを知らねばならない!現世だけうまく生き抜こうとする者は、永劫の苦しみを味わうことを知らねばならぬ!」
「人が死後の世界のあることを知れば、現世での生き方も変わるだろう…。現世が神によって人間性を試される場とわかれば、人の生きざまも変わるやもしれぬ」
そして、「この地獄で見たものを人の世に伝える意味もそこにある!!」と、ダンテを説き伏せます。

「霊界」とか「死後の世界」を否定しない人は少なくないかもしれませんが、「地獄・天国」を信じる日本人は一体、どれくらいいるでしょう?もっぱら、冗談半分に、「地獄へ堕ちる」とか「天国に行ける」…なんて例えに使うような次元ですよね。私もそうでした。全く、リアル感がなかった。でも、聖書を読み、この「神曲」に触れるにあたり…

地獄ってあるの???
((((;゚;Д;゚;))))カタカタカタカタカタカタカタカタカタ
「ある」と肯定は出来ないものの、「ない」と断言する根拠もない。で…

も、もし…あるとしたら、ぜ、ぜ〜〜〜ったい、行きたくない!!!
(ヽ>ω<)ヒイィィィ!!●~*ヒイィィィ!!(>ω<ノ)ノ

永井豪は幼少期、字がようやく読めるようになった頃、自宅にあった文庫「神曲物語」で「神曲」にふれることとなります。
「本来ムチャクチャな性格の私が、『悪いことは絶対にしまい』と心に誓い、まともに生きて来られたのは、少年時代に『神曲』に触れられたことが大きかったかもしれない」
「恐怖心」の刷り込み…。悪いことをすれば「地獄」へ堕ちる。勧善懲悪教育としては、とても意義があるのではないでしょうか。
「人が死後の世界のあることを知れば、現世での生き方も変わるだろう…。現世が神によって人間性を試される場とわかれば、人の生きざまも変わるやもしれぬ」というウィリギリウスの言葉、説得力あります。
「地獄」の怖いところは…
時間がないところ。
つまり、終わり(=死)がない。
際限なく、その苦しみが永久に続くのです。「永久」に比べれば、「人生」なんぞ、ほんの一瞬。かの足軽から天下人にまでなった豊臣秀吉でさえ、死に直面して、「人生は一睡の夢のごとし」と言っています。それくらい、人生というものは儚(はかな)い。この世の「成功」などというものは、「生きるに値するもの」なのか?と問いたくもなります。
永井豪の「ダンテ神曲」(地獄篇)で、私、すっかり「地獄」が恐ろしくなってしまいました。(聖書との相乗効果)
地獄篇に続く「浄罪篇」「天国篇」も読みましたので、更新したいと思います。
この世での、一瞬の喜びや快楽なんて、永久に続く「地獄」を思えば何のことはない!(^-^)v
クリスチャンにとって「死」は「天国」への入り口。「死ぬ」とは言わず「天に召される」。つまり、天国に迎えられ、「永遠の命を与えられる」ということなのだそうです。
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