「がん」という冒険(94)
誰にでも「できる」ことと「できない」ことがある。
おおまかに言って、何でも「できる」人もいれば何も「できない」というような人もいるだろう。
最近、その「できる」ことと「できない」ことについてぐるぐると考える。
きっかけは、かのアインシュタインのエピソードを知ったことから始まる。
列車に乗ったアインシュタインが切符がないのに気づき、アタフタする。それを見た車掌が、アインシュタインを知っていて、切符なんかなくてもOKで通そうとしたら、
切符がないと、どこで降りるのかわからない。
\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
「できる」「できない」は人によって千差万別であり、「できる」人にとってはできるのだし、できない人にはできない。どうしてできるのか?できないのか?と聞かれても答えようがない。
ただし、できないことができるようになることも、できたことができなくなることもある。
何を言いたいかというと、私は長く悩んでいたことがあった。例えば先のアインシュタインなら、「切符がないと、どこで降りるのかわからない」というのは、行く先を覚える能力がないのか、覚えようとする意志がないのか???
相対性理論を提唱するアインシュタインが行く先を覚える能力のないはずはなく、覚えようとしないとも思えない。(そもそも『覚えよう』とするほどのことでもなかろう)切符をなくすのはしょっちゅうらしいし、アインシュタインの特殊なキャラクターを象徴するエピソードなのだろう。
行く先を覚える能力はある。行く先を覚えようとする意志もある。それでも「できない」のは、機能的に一般人と比べて何かが欠けているのだろう。
そうして、我が娘達である。
このブログの熱心な読者(おられるらしい)なら、私に20歳になる双子の娘がいることや、彼女達のことで私が色々、手を焼いていることをご存じかとも思う。
その、手を焼いているなかに、片付けができない。なかでも、「ゴミをゴミ箱に捨てない」ことがあった。
とくに、双子の娘の妹、去年の4月から寮に入って一人暮らしを始めたβについては、この、「ゴミをゴミ箱に捨てない」が顕著であった。果たして、
ゴミをゴミ箱に捨てる能力がないのか?
ゴミをゴミ箱に捨てようとする意志がないのか?
能力については、私が「ゴミはゴミ箱!」と言えばゴミ箱に入れるから、捨てる能力はある。意志については、これは、ない。明らかに、ない。
そもそも、意志をもって「ゴミをゴミ箱に捨てる」ものでもなかろう。おおかた習慣だし、部屋が散らかる、汚れるからという必要性があってゴミはゴミ箱に捨てる。
考えやすいのは、部屋が散らかろうと汚れようと知ったこっちゃない。どーでもいい、のだ。
そもそもβが寮に入ったのも、姉のαと共有の子供部屋がありながら、なぜかリビングに進出しテーブルを独占して床に店開きして「ゴミをゴミ箱に捨てない」をやる。
βが大学生、αが浪人生なら、それもまぁ、よかったが、αも無事に大学生になった。それで、βがリビングに店開きしていた荷物を私が子供部屋に戻した。それがどうも面白くなかったのか、夫との間で私の知らぬうちに寮の契約が進められていた。それならそれで結構。ケッコーケッコーコケコッコーである。
(^。^)y-.。o○(^^)/~~~(^0_0^)(^O^)/(^。^)y-.。o○(^^)/~~~(^0_0^)(^O^)/
寮の居心地がいいのか、休み中も帰ってこない。寮からクレームも来ないようだし、それはそれで成長したものと認識していたし喜んでいた。
一方で、寮のβ部屋がどうなっているのか…?
考えないようにしていたが…。
β部屋を訪れる時が来た。
(つづく)