過去が塗り替わる(3)
学受験生×2との先の見えない生活に疲れ果て、他に比べる子どものない私は、当時の自分を思い出し、そうして、
へ~ぇ。
と自分を見直すことができた。
賢い子やってんなぁ。
ええ子やってんなぁ。
自己評価が低い(自信がない)私にとっては、思いがけない発見であった。(「過去が塗り替わる」(1)(2))
そうして、娘達を見ながら、自分と母の関係も思い出した。
私は人を喜ばせるのが好きである。嫌いな人は別だが、お世話になっている人や好意的な相手には、自分が喜ぶより相手を喜ばせる方が好きだ。
従って、私は娘達を喜ばせたいし、例えば、作った料理を喜んで食べる娘達の顔に癒されてもいた。(たらふく食って寝る…には溜め息なのだが)
そうして、娘達の方は…といえば、
私の誕生日…忘れている。
母の日…興味ない。
娘達に嫌われてるわけではないと思う。
別に、何かしてほしいわけでもないし何も期待しなくなって久しいが、それでも、たまに聞くことがある。
「母を喜ばせたいとか思わない?」
全く素朴な疑問なのであるが娘達は返答に窮する。
そんなこと考えたこともない。
というような様子。私だけでなく、自分達の誕生日以外、誰の誕生日も覚えていないし、そういうキャラクターなのだと深く考えないようになった。
しかし、自分を振り返れば、
母を喜ばせたかった。
子どもの頃から社会人になってからもずっと、そう思っていた。
理由はわからない。
母はすぐに感情的になる怖い人で、言葉の暴力もすごかった。
4人兄弟の一人娘だった私は、母から、
ぐうたら女。
などと日常的に言われたのである。
私は真面目に学校に行ったし、勉強もした。母を困らせたことなどなかったのだが、母は働き者でじっとしていられない人だったから、何事にもスローモーで気の利かない私は、ぐうたらに映ったのだろう。
あんた見てるとイライラする。
よく言われた。
関西から東京の大学を受験したのは、こんな母から逃れたいという思いもあったのだろう。
しかし、東京で生活するようになっても私は(両親に)マメに手紙は書いたし、帰省する際には土産を選んだ。そうして、
選びに選んだ土産を(父は文句は言わない)、母はこともなく、
こんなんいらんわ。持って帰り。
その時の自分の反応を思い出すことはできない。特に腹を立てた記憶もない。
果たして、私がその土産を持ち帰ったのかどうか、記憶にはない。
兄も言っていたが、母は決して、
お土産なんかええから。
とは言わない。
土産がなければないで、不満なのである。けなすのである。
だったら、何がいいのか言ってほしい。
とこちらが求めても、
わからへん。何か、ええもん…
\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?
そういう相手の気持ちを思いやることのできない母に、私は育てられた。
甲斐性のあった父は亭主関白で、母は家事をおこたることもなく4人の子育てに大変だっただろうとは思う。それでも、
どうして、子どもにあんなことを言えたのだろう。(言葉の暴力はたくさんあった)
という疑問は、東京で一人暮らしを始めてから、母となり子育てする今の私も抱き続けている。
しかし、そういう母ではあったが、「嫌い」にはなれなかった。「嫌い」になれば楽なのに…と思いながら、「母を喜ばせたい」と願い続けた。
母を嫌いになるどころか、恨むこともなかった。しかし、
「どうして私に、あのような母を与えられたのですか?」
と主に祈り求めたことはあった。
そのようなことを振り返りながら、
母はおそらく、私を娘として愛せなかっただろうけれど、私はあたりまえに娘達を愛しているし、娘達も当然のように、その愛を受け取っている。
そのことに気づき、それが奇跡のように感じられた。
母親から愛されなかった自分が、娘達を当然のように愛せている。
そのことに驚き、主が働いてくださったことを感じ…感謝した。
私は母と「母娘」の関係を築けなかったけれど、今、私は娘達と「母娘」関係を構築している。構築できている。
このような、(主の)励まし方、癒し方…があるのだと思う。