追悼 桂歌丸(3)

2016年、笑点司会者を勇退した理由として、師匠は、

「体力の限界。これ以上スタッフや仲間にご迷惑をかけられない」と、自らの体調によるものであると語った。
「79年の人生で、大変多くの病気を患ってきました。ヘルニア、胆のう摘出、肺気腫……。2000年、急性腹膜炎になったときは、あまりの痛さで声も出ず、意識を失ったものです。手術でお腹に穴をあけましたが、それでも番組に穴をあけることはありませんでした」
人を笑わせる裏舞台は、こんなにも過酷であるのか、と改めて思わせられる。
それでも次第に無理が効かず、「穴」を開けるようになる。ここ2、3年は急にガクッと来て楽屋から高座に出ていくだけで苦しい…。
「2016年はちょうど笑点が50年、わたしが噺家になって65年で、年齢も80歳になる。じゃあ、「切りもいいし、思い切って辞めてしまおう」と思ったんですね」
そこには妻の、この一言が決め手になったようである。

「お父さんは落語家なんだから、声が出ないのであればしょうがないけれど、人一倍大きな声は出るんだから、寄席で落語をやればいいじゃない。それが生き甲斐になるんじゃないの」
ああそうだ。別に全部やめることはないんだと、ハッと気づいたそうである。
「もちろん、正直、寂しいですよ。わたしの噺家としての土台を作ってくれたのは、大師匠の五代目古今亭今輔であり、今の師匠の桂米丸。そして顔と名前を売ってくれたのが笑点なんです。二人と一つの番組がわたしの恩人。その恩人をここで捨てなきゃいけない。最後の出演となった5月22日の生放送が終わった後には、いろんな思いがこみ上げてきて、不覚にも涙腺が狂ってしまいました」

師匠を笑点に誘ったのは、初司会者でもある市川談志。
しかし最初はあまり視聴者の反応は良くなかった。談志はブラックユーモアが好きで、きわどい回答を欲しがる。今ではとても放送できないような内容で、視聴率も伸びなかった。50年やってきて、番組存続の危機感を覚えたのはこのときぐらいだと言う。
「談志さんとしてもイライラが募ったんでしょう。わたしたち回答者とぶつかるようになった。それですったもんだの末に、わたしら大喜利メンバーが全員辞めたんです」
そうして新メンバーでスタートした笑点は視聴率が一桁台に落ち込み、プロデューサーに呼び戻されて69年に復帰する。
司会者は放送作家前田武彦

だが、その後、談志との関係がまずくなることはなく、よく一緒に仕事した。
3代目、三波伸介が司会者だった1973年には、歴代最高視聴率の40.5%(ニールセン調べ)を記録するが、三波伸介は1982年急逝する。
「長く続けていると、出演者が天国に行っちゃうことも少なくありません」

三波伸介の急逝に伴い、司会者のオファーは、愛川欣也、伊東四朗山城新伍…(いずれも辞退)を辿り、三遊亭圓楽に落ち着いた。 2005年に脳梗塞で倒れてからの圓楽は、病魔と闘う日々を送っていた。あるとき「歌さん、頼む」と言われたんです。この言葉は、わたしの頭から生涯離れないでしょう。
命のバトンである。

わたしの原動力となっているのは、落語家という“役目”です。落語家ですもの。落語以外何をやるんです? 何もないじゃないですか。だからこれからも落語家としての責任を果たしていかなくちゃいけない。先人の師匠たちは、もの凄いものを残してくれています。今度はわたしたちの世代が残していく番です。そうすれば何十年か後に、いまの若い世代の噺家さんたちが、わたしの噺を土台にして、自分なりに変えて新たなものを生み出してくれるかもしれません。